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 ここまで、たどりつければ・・・・・・光がみえてくる。

レネ・べネディチ(vn)のシューベルトの「鱒」が目の前を泳いでいるように聞こえる。
ヨウラ・ギュラーのベートーベン31,32番は、この組合せに限る。
まるで、ベートーベンのシンフォニーを聴いているような深き世界に導いてくれる。
マルツィのシューベルトヴァイオリンソナタは、オルトフォーンのHMV(レッド・グリーン)でなければシューベルトの世界には案内してはくれぬ。

ドヴィシーのヴァイオリンソナタ

テゥミーは、P.CLEMENTでなければ謡わない。

AL BOWLYの弦と歌声は、HMVとP.CLEMENTどちらも魅惑的である。

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失いし時を索(もと)めて・・・・・・。

 

音楽の気高さは、神の賜物であることを、ソール・B・マランツは熟知しているかのように・・・・・、

彼の手から創り出す一連のアンプ群から織りなす琴線(きんせん)は、音楽を享受してやまない愛好家達の魂を動かさずにはおかない。

完全なる手(メチェ)により整備されたる限られた一連のマランツを愛用されてる方は、きっと美しき音楽の言葉に漂渉(ひょうしょう)たる神韻を謳歌され、清浄無垢(せいじょうむこう)なる世界に遊魂(ゆうこん)されておられるのであろう。その上古典タンノイ群(レッド/シルバー)と遭遇するならば、聞き手に音楽には神秘的な彼岸の響が内在し、天球のハーモニーが人間の魂を磨き、癒してくれることに気付くのである。

名器は名盤を伴ない受者を悠久(ゆうきゅう)の世界へ案内してくれるのであろう。

偉大なる芸術家は、必然的に偉大なる苦悩者であるが、名器名盤は受者に快楽を与えてくれる。それだけに、受者は名器名盤に深き理解と、感謝の気が必要という訳だ。終生愛玩しなければならぬ、愛器として・・・・・・。

 

ある愛好家は、トーレンス124は黄金期(M3)のライカと共通点を共有している・・・・・と、

又ある人は、レコード芸術を熟知した人間の作品だ・・・・・と、

又ある人は、よき音楽の気配を感じる・・・・・と、

色々と横道を歩んだ人間が、最後に辿り着く先がトーレンス124であることは、多々ある。

レコードを愛し、音楽鑑賞をよりどころにしている人間は、何の固定観念もなくトーレンス124との出合いを楽しむ。

最初からトーレンス124に辿り着く、恵まれた感性の持ち主の若人もいる。

円盤(レコード)をターンテーブルに乗せた様は、真に味わい深い。

創造した人間がヨーロッパ人であろうとも・・・・・今や最も理解しているのは、和の心を持ったこだわりの日本人ではないか。

もう一方の雄が、仏のP.CLEMENTであろう。

残念ながら、全て(プレイヤー/アーム/カートリッチ)が、専用で且つSPとモノラルしか存在しないが(特注シェルを作り、ステレオも聞けるように挑戦したが、P.CLEMENTの思想を感じない)。

P.CLEMENTは、クラシック音楽に限らず、ジャズに於いても魅力的な表現をする魅惑的なプレイヤーである。

レコード芸術を愛し、理解している輩にとって、トーレンス124とP.CLEMENTは生涯よき伴侶となろう。両者共高度なるメンテを必要とするが・・・・・。

レコードもヨーロッパ盤(特に仏、英盤)には、脱帽だが・・・・・プレイヤー類もヨーロッパ製にはかなわぬという訳だ。

当て所のない道のりを・・・・・されど、疲れを知らぬ人間のために、創造の深淵があるのであろう。

神秘を少しも失うことのない名演と名器が、幸運にも融合することが出来るならば・・・・・受者に幾条かの光を投げかけてくれるのであろう。

麗しく美しき人生のために・・・・・・。

「彼らは自分たちが何をしているのかを知らないのだ」

これはイエスが十字架にかけられる際に口にしたとされる言葉だそうだが、フランスが生んだ思想家(フランス人がこよなく愛してやまぬ思想家)

ヴェルテールの生誕250年を祝う(1944年12月10日)記念式典での講演の閉めの言葉でもあるが、今の世もぴったりと符合する言葉である。

 

 

 

 

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